随筆 オルセイの黒猫

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十月の昼の日が、シャトーの白い石壁に射し込んでいた。剥げ落ちかけた石の間から草がひとむらすっと伸びて、その下につややかな毛並みの黒猫が寝そべっていた。猫は眠るでもなく起き上がるでもなく、目を半開きにして、尻尾を揺らせながらじっとこちらの姿を追っている。このあたりは古い荘園(シャトー)の跡で、その門の脇には昔の番小屋と思われる建物がある。今は小さな郵便局として使われていて、黒猫はそこに居ついているらしかった。シャトーの門を入るとこんもりとした森の中の階段を上がって、大学のキャンパスへと小径が続いていた。

 パリ大学オルセイ校は、パリの南郊約30キロのオルセイという小さな街に広大なキャンパスを持っている。ちなみにパリ市内、セーヌ河畔の美術館のあるオルセイとは特に関係はない。パリの中心あたりからソー線と呼ばれていた郊外電車に乗っておよそ30分、緑の深いシュヴルーズの谷間を走る電車は、街中のメトロと違ってどこかのんびりとした空気を運んでいることが多い。オルセイはどこに中心があるのか分からないような小さな街で、銀行に給費を受け取りに行くくらいしか歩いた記憶がないのだが、フランスにおける理系の研究の中心の一つとして、フランス人ならたいていその名前は知っている。電車を降り、がらんとした駅前から街とは反対側に大きなスズカケ並木の緩やかな坂を下りてゆくと、数分で先ほどのシャトーの門に着く。

 私がその後4年にわたって指導を受けることになったラコンブ教授の研究室を初めて訪ねたのは、目の覚めるような黄葉の盛りの頃だった。シャトーの石壁に当たる秋の日は、午後まだ早いというのにすでに冷たい翳りを帯びていた。門の脇の黒猫は、心細い訪問者を無視して毛繕いを始めていた。

オルセイは四季折々に美しいキャンパスである。小高い丘の頂から斜面、そして小さな川の流れる低地にかけて、全体が森の中に散在する感じがある。ところどころに昔の荘園の名残であった古い館風の建物を残し、今も利用している。川とは言っても、ほんの小さな流れというべきもので、イヴェットという優しい名前が付けられていた。イヴェットの流れは木々の茂みの下を緩やかに蛇行しながら、キャンパスの中を横切ってシュヴルーズの谷へと向かっている。大学はパリの南を走る郊外電車・ソー線の駅三つにまたがる広さを持ち、どの建物に行くかで降りる駅を変えることになる。さらにもうひとつ先の駅近くには数学の高等研究所があって、著名な数学者がしばしば訪れていた。

つたない手紙でアポイントを取って、その日私はキャンパスを迷い歩いた末に、やっと目指す部屋を探し当てた。けれど年配の女性の秘書は、少し気の毒そうにこちらを見て言った。

「ラコンブ教授は今おられない。少し時間を置いてから来て下さい。」

建物の四階にある教授のオフィスに、これからどういうふうにしゃべろうか、うまく話せるだろうかと、足かせでも付けられたような気持ちで上がって行ったのだったが。

「教授というのは、いつ行ってもいないものなのさ。」

リヨンでの夏の語学研修のとき、インストラクターだったジャック・シャポンが、肩をすくめ斜めにこちらを見ながらそう言ったのを思い出す。ジャックのその言葉には、大学で彼が辿ったであろう様々な、そして多分苦い紆余曲折のニュアンスが込められていた。六十八年の学生達のあの反乱から、まだ数年しか経ってはいなかった。どのように答えたか定かではないが、ともかくどこかで時間を使って、もう一度訪ねるしかない。ラコンブ教授の金属材料系の研究室は四階建ての建物ひとつ分、数名の助手から数名の助教授クラスと大学院生、技術職員を入れて総勢四十人ほどのメンバーで、日本で言えばひとつの小さな学科の趣である。各階の部屋に出入りする人たちは、こちらには特に関心を払うでもなく静かに立ち居振舞っていた。

キャンパスは森の中にあるから、ゆっくり時間を使って散歩をするのには好都合だった。一体、黄色い木々の葉の色は人間の感覚にどのように作用するのだろう。陽の光を浴び、きりりと冷たい空気の中で、鮮やかな黄葉の木々はある調和の感覚、世界からあるくっきりとした輪郭を切り取ってくる明晰な感覚、それとともに何かを峻厳に拒絶し守ろうとする感覚を呼び覚ますような気がする。それは四年ほどの滞在の間、パリの並木の下を歩く時も、ヨーロッパの他の街街を歩く時も、常に肌に染み透ってくるように感じ取ったことだった。日本の、心にそろりと沁み込んでくる紅葉、幅広くいくつもの色の諧調を含んだ風景とは明らかに違う。このような風景の違いは、人間の感じ方、考え方をどこかで根本的に決めることがあるだろうか。材料系の研究棟から少し離れたところに、農学・生物系の研究棟があり、その裏手がガラス張りの栽培室になっていた。さらにその奥の木立の中に小さなベンチが置いてあって、まるでここに座り給えという風情だった。ベンチに腰を下ろし、風に揺れる梢を見上げながら、こうして何人もが教授との面会を待っていたりしたのかと考える。

これからどうなってゆくのか。

先ほどの明晰な感覚は少しも長続きせず、自分の心は風の中で頼りなくたゆたっていた。

ラコンブ先生は教授室の分厚いデスクの前で、指を組み合わせて待っていた。鋭い、しかし人なつこい眼鏡越しの表情で、つたないこちらの言葉を聴いてくれた。時々口を曲げ、イラつく時に人がよくする指でとんとんと軽く机を叩く動作をする。どれくらい話せるのかと確かめる風情だった。正直なところ、自分の言葉の能力ではたいした内容を表現できない。日本から来たこの人間がどの程度の能力でどういうことをしたいと考えているのか、先生はこちらの口元を見ながらどうすべきか思い悩んでいるのだ。そんな想像をすると、ますます自分の話す言葉はあやふやになってゆく。日本を発つ前、紹介を受けて手紙を書いてもいたし、先生はそれまでにすでに何人かの日本人研究者を受け入れ、ご自身でも日本に来られたことがあって、日本および日本人をよく知っておられたのだから、自分が面会した時点で先生の気持ちの中ではどうするかということは決まっていたのだと思われる。三つほどの研究テーマを指し示し、説明をされた。自分にあまり迷いはなかった。そのうち二つは日本でもよく見かける内容のテーマであったし、それほど新規性を感じられなかった。結局、先生の挙げられたもうひとつのテーマをこれからの論文のテーマとすることになったが、それが何年かの、またその後の自分の生活を、大げさに言えば運命を決めることとなった。そのときの仕事は、その後今に至るまで、変奏として自分の研究テーマの中に生き続けたからだ。

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ラコンブ教授は1914年生まれであるから、私が訪ねた当時は六十歳である。比較的小柄ながら血色の良い顔と恰幅の良い体で、いつもきびきびと動き回り、いかにもこの分野の大物という感じを体全体から漂わせていた。元々、パリのリュクサンブール公園の脇にあるエコール・デ・ミーヌの教授との兼務であったが、二年前、このパリ大学オルセイ校に専任となって研究室を一本化したところだった。自分より以前にラコンブ教授のところで学んだ何人かの日本の研究者たちは、皆エコール・デ・ミーヌへ行っていたので、先生がオルセイに完全に移られてからは自分が初めての日本人ということになる。

最初に会った時もそうだったが、先生はいつも背広の襟にレジォン・ドヌール勲章の赤い縫い取りを付けていた。口の悪い研究室のメンバー達によると、先生は勲章、賞というと何でも喜ばれて、それらを付けて子供のようにはしゃぐのだそうだ。フランスは身分あるいは階層、出身校による選別ということが隠然と残っていて、ラコンブ先生はどちらかといえば余りエリートではない出身と聞いていた。その先生が叩き上げでここまで上がってくるのは珍しいケースなのだ、という話を聞いたこともある。そのような意識が襟元の勲章にも表れていたのだろうか。 ラコンブ先生はキャンパスにおいても学会においても、あるいは企業との付き合いにおいても大きな力を持っている様子であったから、私のような留学生がたとえば給費の延長の問題で困ったりすると、すぐにしかるべく手を回して解決をしてくれた。フランスはボスの力がかなりものを言う国である。多数いる技術職員や助手たちはそんな先生をあがめつつ慕いつつ、それでもどこか煙たがって遠ざける気配があった。昼休み、技術職員たちは食事をしたあと近くのカフェに行ってゆっくり時間を過ごし、休み時間が随分過ぎてから戻ってくる。そんな時、先生の姿が遠くにちらとでも見えようものなら、” Oh, grand chef ! “ と首をすくめ、こそこそと部屋に駆け込むのだった。

そんな先生がある日、何の機会だったか、柔らかな調子で、しかしいきなり私にこう問いかけた。

「君はなぜフランスを選んだのか?」

窓の向こうに緑が揺れていた記憶がはっきりとある。あたりは静かだった。別に問い詰める調子ではないが、この言葉は自分の胸に刺さった。

フランスに滞在した何年かの間に、何度か同じような質問を受けた。
なぜ、自分はここにいるのか。
問いを受けて一瞬戸惑い、体がどこか別の世界に浮かんでいる感じがする。フランス文学を専門にする人や音楽・美術など芸術分野の人なら、答えることは難しくもないだろうし、本来このような質問をされることもないのだろう。この問いは自分の留学の動機の薄弱さを思い浮かべさせる。昔からフランス語をやっていたから? 確かに言葉にある程度なじんでいるというのは、留学先を決めるのにかなり大きな要素にはなるであろう。理工系の分野で言えば数学、化学、医学、建築、海洋、原子力、鉄道といった領域ではフランスはもともと強いので、この方面の研究者、技術者は割合多く来ている。しかし自分の専攻する材料科学の分野はフランスに目を向けるものは少なく、ほとんどがアメリカへ、あるいはヨーロッパならイギリスかドイツへ行くのが普通だった。この分野でフランスの果たした役割は決して小さくはなかった?たとえばラコンブ先生はその書かれたものの中で、アンリ・ル・シャトリエを開祖として挙げている?にもかかわらずである。これは当時の科学技術に関わる国の勢いといったものが影響していたのではなかろうか。だから当初に掲げた質問の意味は、その質問者が理系の人間である場合には、
「なぜ今、フランスなのか。別にフランスでなくても良かろうに。」
というニュアンスをどこかに含んでいた。さらに裏を読めば、なぜ最先端の勢いのあるアメリカへ行かなかったのかという意味がある。これは答えるのに難しく、自分の言葉を話す能力以前の問題である。そういう時は大抵、
「フランス人の研究に対する精神(エスプリ)に惹かれて・・・。」
といった内容でお茶を濁した。相手は半分納得したような、しないような顔をする。しかしこれはあながち嘘でもない。当時のアメリカすべてであるような風潮に違和感を持っていたことは確かだし、もうひとつ別の世界があるということを漠然と感じもしていたのであるから。
「どこに青い鳥がいるのか、きょろきょろ探しても無駄だよ。」
日本を発つ前、お世話になったF先生ははっきりとこう言われた。
「具体的なものではない。探すべきものはフランス人の精神(エスプリ)の中にあるのだから。」
と。もし自分が研究の分野で強力な後ろ盾を持っていたら、あるいはフランスへ来ることは無かったかと考える。そしてもし最初に海外で生活したのがフランスでなかったら、世界の見方は変わっていたかもしれない。

 1983年、ラコンブ先生はフランス科学アカデミーの会員に推挙されている。われわれ留学生を含め多くの内外の教え子が、慣例によりスペイン・トレドの黄金の短剣を贈呈した。柄の部分に結晶粒の模様をかたどった見事なものである。私と同時期にスペインから来た研究生がいたので、彼が骨折りをしたものと思われる。
「なぜ君はフランスを選んだのかね。」
フランスと日本の間を早い時期から取り持たれた先生は、柔和な目で笑いかけながら、いつまでも私に問いかける。黄金の短剣とともに先生は現在、パリ郊外、ご自宅のあったブール・ラ・レーヌ近くの墓地に眠っておられる。

 オルセイでの4年の間、私は金属の結晶中に閉じこめられた水素を”見る”実験を繰り返した。だが本当に自分は”見た”のだろうか、と思うことがある。
30年ほどを経て、2001年に私は再びオルセイのキャンパスを訪ねた。夏休みで街は閑散としていたが、駅からシャトーの入り口までは何も変わったようには見えなかった。スズカケの木々は多少大きくなっていただろうか。小さな郵便局もそのままで、さらに驚いたことに石壁の傍らには黒猫もいた。真っ白な昼の光の下で、その猫は2匹の子猫を尻尾であやしている。もちろん別の猫に違いないが、血のつながりはあるのだろう。2匹の子猫のうちの1匹は、やはり真っ黒な毛並みをしていた。母猫はじっとこちらを見た。そしてその瞬間に時間は飛び去り、あの日々が目の前を通り過ぎた。自分はこれまでの間、いったい何をやっていたのだろう。黒猫は黄金色の目で、まっすぐにこちらを見る。おまえは本当に何かを見たのか、と。
                                       (完)

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