随筆 マルク (オルセイの黒猫.2)
ブルーライン

その日、オークチュリエは鮮やかに私の目の前に現れた。
 鋭いが柔和な色をたたえた青灰色の目をして、真っ直ぐに私を見つめ、明るい声でただ短く自分の名前を名乗った。
 「マルク・オークチュリエ」
 その一瞬、私の目の前にかかっていた霧が払われた。
 オルセイのラコンブ先生の研究室に到着してから約半年の間、自分にとっては苦しい時間が続いていた。初めての外国での生活に、押しつぶされていたとは思わない。それどころか経験するものはすべて興味深く、生活の上の様々な困難を補って遙かに余りあることを実感していた。子供が環境を吸収し、馴染んでゆくように。けれども研究室において私に与えられたテーマを遂行するには、大きな壁が出来つつあった。

金属の結晶中にトラップされた(捕捉された)水素を見る。これが自分のかかわった研究テーマだった。水素は周期表上の全元素のうち、最もサイズが小さく、固体中での拡散(移動)速度が速く、鉄鋼などの金属中に含まれるとそれらの金属を非常に脆くしてしまうことが知られている。この水素が金属組織中のどのような場所に存在し分布するかを知ることは、その脆化機構を考える上で、さらに進んでこれを避ける上で重要なポイントと考えられる。ラコンブ先生の研究室では、アイソトープを用いて"水素を見えるようにする"手法を開発し、実用金属にその手法を応用し始めた時期だった。私の他に二人の研究者が、この仕事をしていた。初めは教えられた通り実験方法をマスターし、2、3ヶ月の間にはほぼ一人で仕事がこなせるようにはなっていた。しかしいざ自分のデータを出すという時になって、様々な失敗が急に降りかかってきた。最初に実験のやり方を教えてくれたフランス人の研究員は、あっさりと、もう一度やり直すんだねと言う。
 外国人は研究室内で仕事をする時、いくつかの困難に突き当たる。勿論一つは言葉の問題で、もう一つは人間関係である。言葉が貧しいというせいもあるが、実験を進めてゆく上で研究室の何人かの技術員---試料作りや簡単な機器の製作、電気回路、電子顕微鏡のオペレーションから報告書の図面描き・タイプ打ちまで---達とうまくやってゆくのに非常に気を遣わねばならなかった。彼らは気の良い人たちであるのだが、なかなかに気むずかしいところもあって、一筋縄ではゆかない。昼食時にはにぎやかにワインを飲み(研究者達が昼食時にワインを飲むのは、特別な時以外は殆ど目にしなかった)、長い昼休みにはダイスやトランプをしたりして実に優雅に"働く"。この人達に嫌われると、仕事は決して進まないから、外国人ばかりでなくフランス人研究者達も、これら技術員には特別気を遣っているように思われた。二重も三重もの苦労を抱えながら、しかも仕事が幾度か振り出しに戻ってしまう。半年の時間が無駄になるのか、目の前が閉ざされかかっているような日々が、冬から春にかけて続いていた。
 オークチュリエの名前は、研究室に着いた時から聞いていた。私の進めていた研究テーマに関して、彼がリーダーであったからだ。しかしちょうど私がやってきた頃、彼はスェーデン・ウプサラの大学に客員として行っていて、半年ほど留守であった。マルクが居たらこうするだろう、マルクならこう考えるに違いない。研究室の仲間達の内で、それとなくふっと彼の名前の挙がることがあって、それだけでも皆の信頼を集めていることが感じられ、自分でも気になっていた。その彼が帰ってきて、とうとう私の目の前に現れたのだ。

季節は5月に近かった。オルセイは森に包まれたキャンパスである。木々のまぶしい緑に囲まれ、遅い復活祭明けのキャンパスには華やぐ気配があった。マルクは最初に、私に聞いた。
 「君は囲碁をやるか。」
 彼は何年か前、日本に一年間滞在したことがあって、囲碁のことも多少覚えたという。その頃、日本に長期滞在したフランス人はそれほど多くはなかったであろうから、数少ない知日派であった。私の実験は、彼が戻ってきてから、明らかにはっきりとした方向に向かって進み始めた。現金なことに前述の技術員達も、オークチュリエと一緒に働くことを喜んでいたようだった。毎日試料を作り、手の掛かる準備をして、電子顕微鏡での観察が途切れぬよう日程を組んでゆく。金属の薄膜中に含ませたアイソトープをトレーサーとして使うため、観察出来るまでにはかなりの日数が必要となる。少しずつ条件を変えながら、出来る限り効率的にプログラムを作る必要があった。それでも、すべてを充実した気持ちで進められる余裕が出来てきていた。
 その季節の昼休み、食事の後に研究室の裏手の森の中を散歩すると、背の高い柏の木が白緑の若い葉を繁らせ、細い小径に木漏れ日を落としている。ほの暗い場所には、薄紫のジャサント(ヒヤシンス)が群生している。長い冬が明けるのと同じように、希望を抱いた気持ちでその小径をゆっくりと辿ることが出来た。

私のいた材料系の研究棟から森を隔てたプラトーと呼ばれる小高い丘の上には、個体物理の研究棟群が点在していた。X線回折で名を知られるアンドレ・ギニエを始め、そうそうたる研究者達がそこに属していた。森の中の小径を辿ってゆくと、プラトーへ出るまでには一時間近くかかる。それでも森の中を歩く楽しみを知ってからは、昼休みあるいは早めの夕方、よくその道を途中まで往復するようになった。春には広葉樹からの光が行く手にこぼれ、秋には一面明るい黄葉のステンドグラスのような景色となり、やがて踏むと柔らかな踏み心地の落ち葉の道となる。
 この道は孤独な者の辿る道でもある。未だ研究室に馴染めないでいた頃、一人でこの森の中を歩くと、何かから解放されて自分を取り戻すことが出来た。フランス人は一般的には、なかなか中に入ってゆきにくい人たちであると言われる。ただ、入り込むのは難しいが、一度入ってしまうと逆に日本人に近い深いつきあいの出来る人種であるとも聞かされていた。後に親しくなったある人の家に呼ばれた時、その母親から、自分は一見の人には心を開かない、と言われたこともあった。秋が深くなり、森の奥に木の実の落ちる音が響く頃、小径を辿ると、同じように一人でゆっくりと歩いてくる人によく会うことがあった。風貌からして恐らく、東欧系の外国人であるらしかった。その人もやはり孤独を抱え、この道に安らぎを覚えていたのだろう。森の入り口近くに、"我らは一つの地球しか持たない"と幹に刻まれた老木があった。その前で、軽く会釈してその人とすれ違う。お互いがどういう身の上であるか、どちらにもはっきりと分かったのだ。

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マルクは日本に滞在していた間、疎外感を味合わなかっただろうか。奥さんと一緒に来ていたということだったから、そんなことも無縁だったのか。持ち前の明るく親しみやすい性格で、どこへでも入ってゆけたのかも知れない。彼の日本での滞在中、借りたアパートが寒くて困ったと話していた。日本家屋のすきま風には悩まされたらしい。それでも後年、東京で開かれた国際会議の際、日本風の旅館を見つけて泊まっていったほどの日本びいきであるから、最初の一年の滞在中も、積極的に日本に触れていったようだ。
 私がフランスに行った当時、すでに日本は工業国としての地位を築きつつあったから、少し前までのような後進の国としての劣等感のようなものは殆ど感じないで済んだと思う。現在の若い人たちはなおのこと、軽々と国境を越え飛びまわっている。どこで仕事をするかは問題ではないというふうに。それでも異国に暮らす時、どんなに馴染んだと思っても、時折感じる疎外感は必ずあるのに違いない。マルクが自分の前に現れるまでの秋から冬の間、休みの日になると、あるいは週日でも早めに仕事を終えると、足繁くパリの街に出かけた。自分の住む郊外の学生寮からは電車で20〜30分程の距離である。ルーブルも印象派の美術館も、冬の間はそれほど人が押し寄せないし、(ポンピドゥー・センターが出来たのはしばらく後のこと)日曜はこれら国立の美術館は無料となるから、実にのびのびと作品を見てまわることが出来た。だが、人(ひと)気のない部屋から部屋へ歩きまわるうち、何度か足が進まなくなる。絵にはどこと言って特徴のない平凡な17,8世紀の田舎の風景あるいは古い建物が描かれている。絵の中には光も射している。けれども突然、それらの風景がこちらを拒み、自分にとって取り付くしまのないものに感じられることがしばしば起こる。見ている目の前で何かが閉じられてゆくような。描かれた壁と通りが、どこまでもこちらをはじきながら続く。ヨーロッパの冬は暗く、過ごすのに辛いと聞かされていたが、この時期、食事は美味しくなるし音楽の季節でもあるし、実に満ち足りた気持ちで過ごせる時でもある。街を歩くとその充実した気持ちと、一方で拒絶されているような感覚とが代わる代わるに寄せてくる。この感覚は何なのだろうか。     
 思いいたしてみれば、現在日本に来ている外国からの留学生や研究者達も、同じような感覚を持つのではなかろうか。どんなに航空機とネットによって世界が狭くなったように見えても、またどこの国にいたとしても変わらないのであろう。もしかするとそれは、人間がものを見る目を身につける上でかなり大切なことなのではないかと考えることがある。

マルクは、自分の家族のことを余り話さない人であった。
 一度だけ、下の娘さん(まだ7〜8才の)を研究室に連れてきたことがあって、何人かで一緒に大学の食堂へ行ったことがある。夏だったと記憶するから、他の家族が出かけてしまったためでもあったろうか。当時の数年間のつきあいの中で、それだけであった。何かをきっちりと自分の中で分けている人。私が最後の論文を書く時、ともすればデータに寄りかかりがちになるのに対し、マルクはデータの中から大きな流れを立ち上げ、論にしてゆくことを示してくれた。その水際だった明晰さと相まって、そんな印象がある。それでいて陽気に生きることを楽しむ、典型的なラテンの人でもある。

4年の滞在を経て自分が日本へ帰り、それぞれの道を歩んで何十年かが過ぎた。久しぶりにパリで会うことになって、ルーブル宮のカルーゼル門の前で待ち合わせることにした。マルクは大学を去った後、ルーブル美術館の美術品の物理・化学分析の部門に身を置いていた。6月の朝は涼しく、川風が実に心地良い。ネクタイを締め鞄を持ってオデオン近くのホテルから歩いてゆくと、何か昔こうして仕事をするためにパリの街を歩いた時の、きりりとした記憶がよみがえってくる。10時過ぎ、門の脇で待っていると、ルーブルの建物の方からマルクがやってきた。あの日と同じように、きびきびとした身のこなしで。顔は少し老けた感じがするが、目の輝きは少しも変わっていない。彼が現れるだけで、街がぱっと開けるようであった。
 ルーブル美術館の地下のオフィスに入るには厳重なチェックがあるが、分析、鑑定のための素晴らしい機器・設備が揃っている。新しく買う作品の真贋のチェック、古い絵画や彫刻の修理の有無のチェック、顔料に含まれる成分の分析・・・。ちょうど、新しく出てきたゴッホの絵の鑑定を行っているということだった。この研究室はデータを示すのみで、真か偽かは言わないのだという。あとは政府が金をどうするかの判断の問題であろう。若い女性の研究員がルノアールの絵の撮影をしていたが、サインが本物かどうか疑問が持ち上がっているのだ、と言った。顔料(コスメティック)の分析をやっているので、大手の化粧品会社からの援助があるのだ、とも話をしていた。
 美術館の中庭に、昔の宮殿の馬小屋の跡があって、そこが簡単なレストランになっている。明るい茂みの横で昼食をとりながら、互いのこの何年かの消息を話し合う。研究室の昔のメンバー達のこと、日本とフランスの経済事情のこと、最近あったサッカー・ワールドカップのこと(フランスが惨敗した)。そしてマルクは相変わらずゴーロワーズをくゆらせながら、初めて娘さん達のことを話した。
 午後遅く、美術館の中でマルクと別れ、しばらくの間、絵や彫刻の中を歩いた。ニケ、ジェリコー、ダビ・・・壮大な空間を一本貫く何か。典型的なフランス人であるマルク・オークチュリエが、その道を歩いてゆくように見えた。

                              (了)

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