兎平家(ウサギヘイケ)
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 次の夜、家の周りはほんの少し暖かくなった。竹も少しだけ伸びて、裏の影が深くなっている。太郎は、貝に添えるワケギを刻んで待った。
 「あれで止めると言うことはないだろう。」
案の定、兎は、太郎が朴葉味噌の下ごしらえをしているとき、ひょっこりと現れた。
 「昨夜の続きだな。」
兎は小さくうなずく。
「でももう少し待ってくれ。今日はまだ支度が出来ない。」
兎は卓にかけた前脚をおろし、鼻をひくひくとさせた。火の上から朴葉が匂ってくる。兎はくしゃみをひとつして、待ちきれないと思ったか、太郎が皿をかたかたと言わせている方に顔を向けて語りを始めた。出向く時間は決められている、と言わんばかりだった。

亀山のあたり近く、松のひと群ある方に、幽かに琴ぞ聞こえける。

太郎は兎の邪魔をしないように、網をそっと火から下ろした。兎の声とともに卓の上に松原が広がり、琴を弾く女が現れる。小さな人影は、語りにつれ舞いの所作をして動いた。琴を弾きながら家の外を眺める仕草をした女の顔は、太郎が昔知っていた顔になった。
 「こんなところへどうして。」
 太郎は手を止めたまま動かなかった。長い年月がよみがえった。
 「あの頃、あの人はあんなに悲しい顔はしていなかったはずだが。」
女はつと裾を引いて立ち上がり、月を見るように上を向いた。空間はどこにあるのだろう。太郎の持つ盃が月の位置のようだったが、女の視線は遙か先を見つめている。
やがて物語はあわただしく展開し、女は嵯峨の奥へと隠れ住んでしまった。
 「そう言えば短い月日だった。もう少しいれば良いのに。」
女が消え去った隅を見て、小皿の位置を直してみた。そのあたりに特異点があるように思えたのだ。
それから物語は東国へと移る。草深い東国に雌伏していた源の兎の一族が次第に力を蓄え、1人また1人と旗を挙げて、平家に対する反乱を起こし始めた。東国の兎一族は何やらたくましく、体つきも大きいようだ。中でも木曽殿は力強かった。木曽殿の姿が卓の上に現れると、兎の口調もいくらか熱を帯びてくる。

赤地錦の直垂(ひたたれ)に 唐綾おどしの鎧を着け 馬は聞こゆる鬼葦毛

太郎も思わず、はしに力を入れた。ワケギのかけらがぽとりと卓の上に落ちたが、勇ましき木曽殿はものともせずに飛び越える。
 「何と凛々しい。」
だが目を転じて木曽殿に付き従う武者どもの顔を見たとき、中に今は亡い父親の顔がちらと混じったように思った。それもほんの一瞬で、きらびやかな騎馬の隊列の中に、太郎はその顔を見失った。音もなく木曽殿の軍勢は卓の空間を駆け抜け、次々に平家の軍を打ち負かして、都へと攻め上る。そしてその最中、平 清白は病に倒れ、苦悶の表情で世を去った。兎の口上は、多少うわずっていた。
 「やれやれ、ひと時代が過ぎたか。」
 貝を口に含みながら、卓の上を流れてゆく人影達の中に、太郎は父の顔をもう一度探した。父はゆらゆらと現れては消えた。

三日目は夕方から、細かい雨が降り出した。竹林はひっそりと音もない。兎は来なかった。耳の濡れるのがいやだったのだろうか。太郎はゆっくりと湯を沸かし、長い時間をもて余して過ごした。

兎は次の日、少し早めに現れた。昨夜の分まで余分に語ってやろう、という意気込みのようだった。兎は卓の上を見て、
「あれ、今日はお酒じゃないの?」
と、聞く。卓の上には白葡萄酒と瀬戸の杯が乗っていた。兎は、平家語りに合うのかなという顔をする。太郎はぴしゃり、
「そう言う問題ではない。」
と、兎の異議を却下した。鶏のトマト煮込みが、鍋の中からほかりと湯気を立てている。皿にのせられた人参のグラッセを横目で見て、兎は落ち着かぬ顔をした。
 「少し食っていいぞ。」
太郎が皿を押し出してやると、兎はほんの少し人参をかじった。
 「甘いんだね。」
もこもこと口を動かしながら嬉しそうに言う。そのせいかどうか、兎は話を多少はしょったようだった。あれよあれよと思う間に、平家一門の都落ちも、木曽殿の最後も済ませてしまったのだ。太郎は口を挟んだ。
 「そこは薩摩の守が、一度都へ戻ってくるところじゃないのか?」
 兎はしまったという表情で、口の動きを止めた。

  さざなみや 志賀の都は荒れにしを

太郎が歌を暗唱すると、そうだったそうだったと、兎は口を合わせる。ついでに皿にこぼれた葡萄酒をそっとなめた。木曽殿もいなくなり、卓の上を流れる人々の動きはますます早くなる。そして右往左往する人形達の中に、太郎は自分の顔ではないかと思う姿を見つけて、はっとした。青い直垂の人物が、落ち行く平家達の中に1人降り立ったのだ。それと一緒に、赤い装束の女がそばに降り立った。

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「あれは妻ではないか。」

女の顔はうっすら紅潮し、舞いながら太郎の人形の周りをまわる。実際の妻は今、何日の間か他所へ出かけて、留守をしている。太郎は杯を持ち上げ、改めて部屋の中を見まわした。

「自分は一体、ここで何をしているのだろう。」

兎は、目の前で語り続けている。

「どの空間に自分は身を置いているのか。」

たいそう頼りなく浮かぶ感じがする。今まで気づかなかった時計の音が急に耳に入り、物語の数十年はほんの短い間に過ぎてゆく。

「どの時間に自分は身を置いているのか。」

太郎の顔をした青い装束の人影と、妻の顔をした赤い装束の人影とは、緩やかにまわりながら人々の流れの中に飲み込まれ、卓の上の空間を漂っている。葡萄酒の酔いがまわるほどに、太郎は目の前の兎を疑わしそうに見つめた。

「ここにいるのは本当に兎か。」

そしてまた改めて考える。

「何でここに兎がいるのだ。」

堂々巡りの頭の中で、人形達の顔が輪のように回転する。兎はその日、一ノ谷に平家と源氏が対峙するところまでを語り、そそくさといなくなった。

こんなふうに兎は、毎夜現れては太郎の相手をした。五日目には一ノ谷の戦があって、平家の若武者達は次々に倒れていった。太郎は昨夜の青い装束と赤い装束の人形が、そこでもまだ惑いながら、何かに操られるように舞い動いているのを見た。六日目には屋島の戦い、那須の与一の放った矢が卓の向こうにひょうと飛び、また小宰相という若い女御が海に身を投げた。
そして七日目の夜、兎はやや緊張した面持ちでやってきた。
「今夜が最後だな。」
兎はうなずいた。
「壇ノ浦ですから。」
「まあ落ち着け。」
太郎は鱧と三つ葉を小鍋に入れて、卵でとじた。酒は残り少なくなっていた。岩牡蛎が三つ、酢橘と一緒に皿に乗せてある。兎はすっと話に入った。

元暦二年三月 豊前の国赤間の関に 源平矢合わせとぞ定めける

太郎の前に、壇ノ浦の海峡と速い潮の流れとが現れる。初め優勢であった平家は、潮の流れの逆転と共に次第に追いつめられてゆく。卓の上の海峡を大きな兵船がすべってゆき、武者を乗せた小舟が入り乱れて行き交う。旗の流れ、波のしぶき、飛び交う矢、そして刀、長刀のきらめき、組み討ちする武者達。兎の語りと共にすべて音もなく目の前に繰り広げられ、太郎は固唾をのんで見守った。
 やがて戦いは平家に利あらず、多くの者が海に身を投げる。その中で二位の尼が、
 波の下にも 都ぞ候
と、幼い安徳帝を抱いて海に飛び込もうとした時だった。幼い帝の顔が、一瞬こちらを向いた。二位の尼の顔が、妻の顔に重なった。
 「待て。」
 太郎が話をとめた。
 「小さい子だぞ。」
 「でも、こういう物語ですよ。」
 兎は不満そうに言う。
 「それでも待て。今、少し三つ葉を食わせてやるから、待て。」
 「だって、三つ葉あんまり好きじゃないんだもの。」
 兎はそれでも不承不承、幼い帝が壇ノ浦を逃れ、深い山へと落ちのびる筋に曲げて直した。兎も器用なものだ。
 「これで良かった。」
 太郎は酒を一口飲み干したが、兎はもう一つ納得出来ない表情だった。
 「続けなさい。ところであの二人はどこへ行った。」
 太郎は自分と妻の顔を、右往左往する大勢の人物達の中に探した。だがあの二人の顔は、いつの間にかどこにも見あたらなくなっていた。
 「うまく流れを渡ってくれればよいが。」
 太郎は、苦い味の山椒を噛んだ。平家の総大将、平 知白(ともしろ)は、
 「見るべき者は見つ。この世は一場の夢。」
と、大きな兵船と共に沈み、すべては終わった。
 兎が語り終わった時、竹林に射す月の光が、ありありと太郎の目の前に浮かんだ。そうそうと風も吹いている。
 そして、表の戸を開ける音がした。
 「すっかり遅くなりました。」
 七日ぶりに、新しく生まれた赤ん坊を連れて、妻が実家から帰ってきた。兎は静かに退場した。
 「あら、ちゃんと食べているのね。」
 顔を上気させた妻が、卓に着く。卓の上には、ただ小鍋と皿とが残っているだけだった。 「私もお腹がすいたわ。向こうの家ではね・・・。」
 忍冬が良く匂っている。屋根の上で、天空の軸がほんの少し傾く。太郎は柔らかな赤ん坊を抱いて、その微かな音に耳を澄ませた。 
                      (了)

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