短編 カラカル・カラカリ
**今からでも遅くない猫語**

ブルーライン

カサブランカの街では、ちょっと変わった仕事の見つかることがある。 その白い街で、祐三は困り果てていたのだった。親方に連れられてやってきたのはちょうど五月、熱い風が吹き始める頃だった。街に住む猫の生活を写真に撮るのが請け負った仕事で、最初は何もかもうまくいっていた。どこを見ても新鮮な景色だったし、風の運んでくる砂でさえ別の世界からの便りに思えたほどだった。 けれど祐三はひどい失敗をしでかし、親方の大事なカメラを二台も台無しにしてしまった。長い望遠レンズもついた立派なカメラは、今でもメディナの古い井戸に沈んでいる。仕事はそれで終いになり、親方はすっかり怒って、先に帰ると宣言した。  「自分の失敗は自分で取り返してこい。」 がらんとした空港で、祐三に向かって親方はそう言った。そしてさっさと一人で飛行機に乗り込み、あっと言う間に鈍く光る雲のあいだに消えていった。 「そんなこと言ったって。」 白い街に取り残された祐三は、頭の中までが白い影に塗りつぶされてゆくように思った。

街にはたくさんの外国人がいて、随分忙しそうにあるいは随分暇そうにしている。そんな中に混じって、手元に残された粗末な小さいカメラを抱き、祐三は当てもなく夏の街の中を歩きまわった。すっかりガラスとコンクリートに囲まれてしまったこの街にも古い一角があって、港の方からの風もそのあたりには吹き込んでこなかった。祐三は眠くなるような昼間、細い路地から路地をここの人々と同じやり方で歩いた。
「そんなこと言ったって、自分一人じゃ何にも出来そうもないよ。」
タマネギと羊の匂いが、小径の隅々から漂ってくる。泣きたい気持ちを抑えながら祐三は、親方を感心させるような仕事をしてやろうと、汗をふきふき足を引きずってまわった。けれどそういう時に限って、映したいと思う猫達は申し合わせたように祐三の前から姿を消してしまうのだった。まるで年に一度、隣のアルジェの集会に一斉に出かけたとでも言うように。
古い一角の薄暗い茶店には、時間を持て余した旅行者がぽつんと座っている。壁に掛かった織物から、鮮やかな赤と青の光が窓に映っている。
「この季節、自分が住んでいた街では・・・。」
と、旅行者達はぼそぼそ話している。
「冗談じゃないよ。」
祐三はだんだん腹が立ってきた。
「何で自分がこんな目に会ってなきゃならないんだ。」

そうして無駄に季節が過ぎてゆくに従い、祐三は心配になってきた。滞在できるお金どころか、帰るための費用も心許ないことに気がついたのだ。
十月になる頃には考えた。
「何とかしなければ。」
そう、何よりも帰りの飛行機代くらいを稼がなければならない。
「だけど、どうやって?」
祐三は、目の前がくらくらとしてくるようだった。
「やっぱり何とかしなければ。」
毎日、祐三は同じ道をぐるぐるとまわった。市場の脇の細い路地に踏み込むと、パンを焼く店、帽子を売る店、赤銅の食器を直す店と様々な商人達が狭い入り口に顔を並べている。奥の方にときどき陽の射す中庭が見えるが、そこは入って行けない秘密の場所らしい。曲がりくねった石段があり、崩れかけた石のアーチをくぐると、モスクの小さな入り口がある。いつも同じ道を通るので、入り口を掃き清めている老人がちょっと会釈をする。だが最近になってちょうどその並びに、今まで見た覚えのない建物のあるのが目に入るようになった。
「ここにこんなものがあったかしら。」
何度も通っているはずなのに、自信がもてないのだ。建物自体は、まわりと変わったところはなかった。ざらざらと分厚い土壁に小さな窓がついて、入り口の木のドアが青く塗ってある。そのドアに、いかにも急いで打ちつけたように看板が掛かっていた。
[M&M鉱山探索事務所]
そしてその看板の下には、小さな貼り紙がしてあった。
 求む、通訳。高給。

祐三の頭の中は、はっきりとしていた。もう夏の間の手ひどい暑さも過ぎていたし、何よりその青い木のドアがすっきりと目を覚まさせてくれた。
「このあたりで通訳を必要としているということは、余りなじみのない言葉ということだ。」
もしかすると、自分にもその資格があるかも知れない。「高給」という言葉を横目に見て、祐三は考えた。
木のドアは、思いのほか軽かった。よろめきそうになって中に入ると、狭苦しい部屋の中に机と椅子が二つだけ置いてあって、男が一人で座っていた。ラクダみたいな顔をした浅黒い男で、分厚い唇にタバコをくわえていた。男は書類をめくっていた手を止め、祐三を見た。部屋の空気はよどんでいて、何か部屋全体が今までずっと眠っていたというふうだった。前置きは何も言わなくてよろしいと祐三を椅子に座らせ、男はゆったりした声で聞いた。
「君は猫語が出来るのかね。」
そしてタバコの煙をひと吹きして、付け加えた。
「それならば高給で雇うのだが。」
祐三はよく働く頭の中で考えた。今この男は、何と言った?
これはバカにされているのだ。
それならば、こんなところに座っていることはない。ドアを軽々と蹴って表へ飛び出した。
「まったく何ていうことだ。」
祐三は、からりと明るい小路を見た。
「猫語が出来るかだって?」
肉屋の角を曲がり、つまづきそうになりながら細い通路を抜けた。重なり合った建物の上から、まぶしい陽が射し込んでいる。あたりの空気は急に澄んで、香辛料の香りが強くしてくる。
そのとき祐三は、少し先の小さな格子窓の家に、今度はこんな広告の出ているのを目にとめた。
[今からでも遅くない猫語]
祐三は立ち止まって、ゆっくりとまわりを見た。すぐ脇の石段が、高いところへ続いている。
「これは何か変だ。まるで街中が、自分をおとしいれようとしているみたいだ。」
その建物も、まわりと特に変わってはいなかった。何度も塗り直した壁の一階に、黄色い木のドアがついていた。ドアのところには、さらに細かい字が書いてある。
言葉教えます。七日間で必ず上達。
自分の頭が本当にはっきりしているのかどうかと、祐三は耳を引っ張ってみた。木のドアがきしんで小さく開き、目つきのきつい女がすらりとのぞいた。そして祐三に向かって言った。
「何を遠慮しているの。本当に習う気があるのなら、お入りなさい。」

中は質素な作りで、厚い石の壁に木の調度がはめ込まれていた。格子窓から斜めに入ってくる光が、テーブルの上に落ちている。女はやわらかな調子で話しかけた。
「どうするの。あの広告が目に入ったっていうことは、言葉を覚えたいってことでしょ。」
テーブルに指をついて、女は祐三の目をのぞき込んだ。
「今日の夕方から始められるわよ。ほかにもう一人、生徒がいるけれど。」
部屋の中にかすかに乾いた布の匂いと、香草の匂いがしていた。祐三は、自分でも何か分からないまま返事をしていた。
「今日の夕方?ここで?ええ、まあ来てみますが。」
時間になるまで、祐三は白い街の中をやみくもに歩きまわった。自分が入り組んだ迷路の中で、誰か大きな者の思惑の中に捕まってしまったような気がして仕方がなかった。
その日の夕方は、くっきりとやってきた。雲は街の上から退いて、細い路地の隅々にまで黄色の光が満ちていた。
部屋にはもうすでに、もう一人の生徒が座っていた。フェズの方から来たという十二、三才の女の子だった。昼間の女が、奥の戸口から現れた。白い肩掛けを軽く巻き付け長い髪をまとめて、陽に焼けた顔立ちをしていた。女は二人の生徒に、唇を半ば開き喉の奥で「W」の発音をすることを教えた。
「やわらかく、やわらかく。決して鼻にはかからないで。」
それから七日の間、祐三は小さな女の子と二人で猫語の授業を受けたのだ。 猫語には、厳密な意味でのアルファベットはない。音の高低、長さ、ふるわせ方などで変化をつける。
「まるで葦笛を習うみたい。」
生徒の女の子は言った。人間の言葉のように動詞と形容詞の区別は明確ではない。それに言葉は声で発するばかりではないから、身ぶり、尾の振り方、毛の立て方まで知らなければならない。
「それはあなた達には無理だから。」
と、女の先生はその意味だけを教えてくれた。七日の間に世界は変わり、祐三の目の前には猫の目で見る新しい街の様子が開けてきた。
「こんなふうにものが見えるのね。」
そう言って女の子はフェズへ帰っていった。

祐三は、勇んで鉱山探索事務所のドアを叩いた。本当はこの事務所がまだあるかどうかも心配だったのだが、看板は前のとおり青い木のドアにかかっていた。 このあいだの男は、相変わらずタバコの煙の向こう側にいた。
「あの話はまだありますか。今なら私は多少、猫語もできます。」
男は下から祐三を見上げ、それからぱらぱらと書類をめくってその一枚を無造作に突き出した。雑な地図と一緒に、いくつかの記号が赤く入れられている。机に向き直って、男は言った。
「仕事は、砂漠に鉱脈を探すことさ。いや、もうすでに見当はついている。実際にはそこに住む者たちに、我々の仕事に対する協力を要請することだ。」
タバコを椅子に押しつけてもみ消すと、男は体を乗り出した。
「いいかね。ここから南東に向かって千五百キロの砂漠に、広大なコバルトの鉱脈が眠っている。私がそれを発見したのだ。偶然のチャンスを掴んでね。だがそれを掘り出すためには、いくつも困難がある。その中でもっとも大きな困難は、今言ったとおり、そのあたりに住む者たちの協力を得ることなのだ。」
男の目は、次第に輝いてきた。それまで怠惰に見えた部屋の空気も、熱を帯びて立ち上がってくるようだった。
「しかしその者たちは勇猛で、誇り高い。我々が彼らの土地に入って仕事をするのを、なかなか許さない。これまで何度も交渉をもってきたが、はかばかしくいかなかった。だが私はあきらめないよ。何としてもこの取引を成立させるのだ。」
  男は、机の端を力強く握りしめた。
「その交渉に通訳がいるんですね。」
祐三がようやく口をはさむと、男は肩の力を抜いた。
「その通り。そして相手は、砂漠に住むカラカルという精悍な猫族なのだ。なかなかしたたかなネコシアンの連中と言うわけさ。」
一呼吸おいて男は、赤い目でじっと祐三を見た。
「さて、猫族の言葉は共通だ。ヒョウ族、ヤマネコ族と、多少の方言くらいの違いはあるが。私だって長年の経験で、多少のことは分かるようになったんだ。もしも君がO.K.ならば、すぐにでも出発の準備をしてくれたまえ。」
最後の大きな声と一緒に、事務所は急に生き生きとし始めた。

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ものぐさそうだった男の様子は一変して、きびきびと動き出した。電話が次々に鳴り響き、鋭い顔つきの男たちが何人も現れた。事務所の男は、マサドと呼ばれていた。祐三があれよあれよと見ている間に準備が整い、次の日には三台のランド・ローバーが街を出発することになった。
次の日の朝、車に乗り込みながら祐三は、何か腑に落ちない気持ちだった。
「本当に猫族と交渉するのか?この自分が。それにこの男たちの熱の入れ方と言ったら、ただ事じゃないぞ。」
事務所長のマサドは先頭の車に乗り、満足そうに後ろを振り向いた。
「我々にはいつでも行ける準備が出来ているのだ。今度こそはうまくやるよ。」
三台のランド・ローバーはあっと言う間にカサブランカを出て、南東に向かってひた走った。大きな山脈を越え、まばらに硬い草の生えるステップを過ぎ、最後のオアシスを後にして、高い砂丘の続くエルグの地帯に入っていった。車は砂に足を取られ、傾きながら走った。何度も必死で車体を押さなければ、進まないこともあった。大きな砂丘の陰に眠ると、高い月が青々とあたりを染めた。朝にはキャンプの上にうっすらと砂が積もっていて、砂丘は夜の間に少しだけ動いた様子だった。長い青い衣装を着たトゥアレグのキャラバンが、遥か南の方を通り過ぎ、幻のように消えていった。南には果てもなくうねうねと砂丘が連なり、祐三はめまいがするように思った。
「冬にかけてのこの季節が、砂漠を歩くのには一番適している。」
マサドはそう言って、慎重に革袋から水を飲んだ。
「ところでこれからは岩の台地にかかるから、車は捨てなきゃならん。」
十日目に一行は車を離れ、ラクダに荷を積んで歩き出した。祐三はラクダの背に乗ったり、下に降りて横を歩いたりした。細かい雲母の破片におおわれた台地には、うっすらと道がついていた。上るにつれ、今まで砂に囲まれていたときがうそのように、冷気がまわりを包みだした。
「何でこんなところへ行かなければいけないんだろう。」
祐三は、ぶつぶつと文句を言った。けれど何日も歩き続けるに従って、体の中はまわりの世界に同化し、洗い流されてゆくようだった。

街を出て十五日目、一行はいい加減あえぎながら、大きな岩山の頂き近くまで来た。そこからはこの大地溝帯が、遠くスーダンの方まで続いているのが見渡せた。
  そして祐三たちの交渉相手は、突然現れた。キャンプを張っていた窪地にたった一人で。
それは精悍な顔立ちのカラカル(*)だったが、トゥアレグと同じ青い衣装をつけ二本の足で立って歩いてきた。風切り羽根のような耳を持ち、深い灰色の目をしていた。彼は自分から名乗った。
「カラカル・カラカリ。」
風の中にはっきりとよく通る声で、それを聞いた瞬間に祐三は、この猫族に訳もなく尊敬の気持ちを持つようになった。
 (*)カラカル:アフリカからアラビアにかけての砂漠地帯に住む大型の           猫族
カラカルは単刀直入に話した。
「君たちはいつもの用件で来たのかね。」
ざらざらとはしているが、明快な言葉だった。祐三はその通りに通訳をした。マサドが答える。
「その通りだ。この一帯に広がる鉱脈を掘るために、協力をしてもらいたい。」
  カラカルは岩の上にどっかりと座り、首を振った。
「そのことなら、私たちの返事はいつも同じことだ。」
マサドも座り直した。
「眠っている鉱脈は目を覚まさせ、役に立てるのが筋道ではないか。」
耳をきりっと立てて、カラカルは反論した。
「いや、眠っているのではない。ここに在ることによって、一帯を安定させているのだ。」
祐三を中に立てて、二人は激することもなく言葉をやりとりした。二人の議論している間、ほかの男たちは別の窪地に集まってのんびりお茶を飲んでいた。自分たちには関係がないから、という様子だった。風にふるえながら二人のやりとりを互いに伝えているうち、祐三は彼らには別に通訳を通さなくても話が出来るのではないか、とさえ思い出した。もう何年もこんなことを繰り返しているようなのだ。
マサドが要求をし、カラカルがノーという。一週間の間、交渉は続いた。冴え冴えした星の下で寝袋にくるまり、ふるえながら祐三は考えた。
「一体いつまでこれを続けるんだ。」
砂漠の真ん中にいるとは思えないほど気温は下がり、合間に飲む温かい茶がわずかに体を暖めてくれる。カラカルは毎日決まった時間に野営地に現れ、また決まった時間に青い衣装の裾をひるがえし帰っていった。祐三は、だんだんカラカルに好意を持つようになっていった。姿も態度もきりりと引き締まっていて、砂丘の間から生まれ出たというのにふさわしかった。それとなくカラカルに有利なように通訳をすると、時折マサドが怪訝な顔をするのだった。

何日目かの晩に祐三は野営地を出て、高い台地のまわりを少し歩いてみた。月が一番高いところにかかっていた。風は珍しくおさまって、遠い物音も聞き取ることが出来た。
その時思いがけず、カラカルが現れた。相手はまるで、祐三が出てくるのを知っていたみたいだった。
「どうかな。私の土地に来てみないか。」
カラカルの額には、空の光が映っていた。祐三は彼について、台地の岩の裂け目を降りていった。自然の階段が幾重にも折れながら下の方へ続き、降りるに従って少しづつ暖かくなっていった。カラカルは黙って、岩から岩へ軽々と飛び移った。祐三は初めて、その優美な長い尾に気がついた。
やがて台地を離れ、大きな砂丘の影を幾つも越えて、やっとカラカルは振り向いた。
「お前には見せてやろう。ここに、この下に大鉱床が横たわっているのだ。」 砂の一粒一粒が立っていた。空からの光に、砂の中の金属元素が輝いているのだった。そしてカラカルの指さした一帯は、まわりの砂の色とは違って、少し黒味がかっていた。
月は二人の影を、青々と砂の上に落とした。カラカルは自分の影を長く曳いて、測量をするように鉱床に沿って歩いた。
「お前は、我々の交渉のことをどう考えているか。」
と、カラカルは歩きながら聞き、祐三に答えるひまを与えずに言った。
「あの男、マサドが掘りに来るのでもない。私が守ろうとしているのでもない。」
  意外な答えだった。
「この鉱脈自身がマサドを呼び寄せ、私を立ち上がらせるのだ。いいかね。毎年この季節に、鉱床が地中深くで呼吸をする。それと一緒に、遠いカサブランカでもマサドの事務所が目を覚ます。そして、私を媒介にして交渉が始まる。
地中の鉱石が、私たちを操っている。これはずっと古い時代から繰り返されてきたことなのだ。マサドの前のマサドの時代、カラカリの前のカラカリの時代から。」
砂の中で聞くと、こんな話も奇妙には思えなかった。
「お前の仕事は無駄に終わるだろう。だが、心配はするな。すべては繰り返されてきたことなのだから。」
カラカル・カラカリは、祐三を連れて長いこと歩いた。足元の砂は冷たく、体をはっきりと目覚ませてくれた。
大砂丘の裾に、小型の飛行機の残骸が横たわっているのが見えた。カラカルは飛行機のことを、不思議なものを見るような顔で眺めていた。
「こういうものが時々、落ちてくることがある。これらは飛んでどこへ行くのか。」
と、カラカルは祐三にたずねた。
「多分チュニスか、ニジェールあたりに飛んで行くんでしょう。」
祐三がそう答えると、よく理解できないというふうにカラカルは耳を振った。
  「カラカリの前のカラカリの時代へも、飛んで行けるのかね。」
祐三には答えられなかった。

交渉はさらに何日も続いた。同じことの繰り返しだった。マサドはあくまで、鉱石を掘り出すことを主張する。カラカルはどこまでもそれを拒否した。
祐三は間にたって、だんだんにいらいらとしてきた。カラカルの方に好意を持っていたが、それだけでは何も進展しなかった。
「どちらかが別のことを言い出さなければ、終わりがないじゃないか。自分は何のためにここにいるんだ。」
だが交渉は、ある日急に終わった。やりとりをじっと聞いているうちに、祐三は我慢できなくなってこう言ってしまったのだ。
「どちらになっても同じことでしょう、鉱石にとっては。私たちには何も変えられませんよ。」
口に出してから祐三は、余計なことを言ってしまったかと思った。カラカルもマサドも、風の中で固まってしまった。祐三は一瞬、すべてが消えるのかと疑った。砂漠の中で、夢のように。しかし何も消えなかった。ただカラカルもマサドも、黙って実に淋しそうな顔をした。それからカラカルが、はっきりとした声で言った。
「よし、これで交渉は終わりだ。」
立ち去る前、カラカルは祐三に小さなバラ色の石を手渡した。長い裾をひるがえし岩を飛び越え、砂漠の方に降りて行く姿は、もう人間のようではなかった。 帰り道、来たときとは逆にM&M事務所の一行はうなだれて歩いた。特にマサドは気の毒なくらい元気をなくしていたが、それでも祐三を責めたりはしなかった。
街の事務所で、マサドは祐三に封筒を渡した。
「これが君の報酬だ。長いことご苦労だった。たしか、自分の国に帰るためだと言っていたようだから。」
中には飛行機のチケットと、なにがしかの金が入っていた。事務所を後にするとき、祐三は振り返ってみた。ざらついた壁と木のドアは影が薄く、あわあわと西日の中に消えてゆくようだった。ちょうど街中に祈りの声が響いていた。

祐三は街を後にして、八ヶ月ぶりに空港に立った。親方を見送って以来、初めて元の世界に戻れたと思った。様々な国へ行く便のボードが、くるくると回転している。祐三の乗る飛行機会社は聞いたことのない名前だったが、時間通りにゲートが開いた。
飛行機は東に向かって飛び立つと、あっと言う間に砂漠を後にしてチュニス、アレクサンドリアを過ぎ、紅海を渡ってアデンをかすめた。紅海は青く傾きながら遠ざかり、くるりと地軸が反転した。
自分の街のまぶしい緑の下で、祐三は手を開いてみた。カラカルにもらった石が、色あせずに光を受けている。飛行機がインド洋を越えるあたりで、せっかく覚えた言葉はするりと祐三の中から抜けてしまった。今まで抱いていた猫がどこかへ行ってしまったように。ただ「W」の発音の感覚だけが、緑の下でもぼんやりと思い出された。
「やわらかく、やわらかく。決して鼻にはかからないで。」
これが、カサブランカでの七日の間に習ったことのすべてだった。

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