紅殻館の盗難事件
 1/2
ブルーライン

  「よかったら、話を聞いてもらえませんか。」
 遠慮がちにやわらかな声が聞こえ、信三は思わず首を巡らせた。夜明け前の通りには猫の子一匹見えず、水を打ったように静まっている。襟をかき合わせ、信三は目を上げた。声は上の方からしたように思えたのだ。星はにじみ出し、空の半分をおおった雲の色もわずかずつ変わり始めている。街路灯がかたかたと風に鳴り、明かりが明滅する。もう一度、声が聞こえた。
 「あなたの上ですよ。」
 ちかちかと灯を揺らせながら、信三に向かって街路灯が話しかけた。
 「何だって?」
 信三は不機嫌に上を見て、返した。夜の間中眠れないまま過ごし、仕方なく外に出てみようと歩き出したところだった。信三は探偵小説(何という古めかしい)というものを書こうとして、その筋を考えあぐねていたのだ。何時間も頭をかきむしりコーヒーを何杯も飲んで、それでも一つも頭からは絞り出せなかった。通りの風はまだ冷たく、ほんの少し信三の目を覚まさせてくれる。
 「それなのに、何だって街灯が俺に話しかけるんだ。」
 時代遅れな電球タイプの街路灯は、申し訳なさそうに言う。
 「あなたが探偵の出てくる小説を書いていることは知っています。人の見落とすようなところにトリックを張っておいて、最後にあっと言わせるんですよね。」
 何故そんなことを街路灯が知っているのか。余計に機嫌を悪くした信三は、街路灯を蹴ろうとした。あわてて街路灯が言う。
 「待って下さいよ。あなたの参考になるかも知れないと思って、私の聞いた話をしてあげようとしているんですから。」
 「うるさいな。俺の頭の中はすっかり詰まってしまって、まるで腐った野菜を載せているみたいに思えるんだ。何も考えつかない。」
 いつの間にか信三は、むきになって街路灯と言い合っていた。街路灯はなだめるように言った。
 「だから少しでも手がかりになるかと思ったんじゃありませんか。しばらく前に椋鳥から聞いたおかしな事件のことです。あの連中と来たら、いつも街中のうわさ話を広めてまわっているんですよ。」
 「おかしな事件だって? ふん、じゃ話してみろ。ただし、手短にだぞ。ここに立っているだけだって楽じゃないんだ。」
 「私なんかずっと立っていますよ。そう、ところでその話というのは、紅殻館の盗難事件と言うんです。」
 「たいした事件でもなさそうだな。」
 「紅殻館というのは、ここから遠くない13街区にある小さくはないレストランです。」
 「俺も知っているさ。あそこの主人は山猫みたいな顔をして、たいそう商売が上手だという話だが。」
 「そう言われているようですね。まさにその主人が出てくるんですけれど。」
 街路灯は手短にしようと、せわしなく明かりを明滅させ、こんな話をしたのだ。
TOP

 この街の13街区の紅殻館で、盗難事件があった。
 取られたものはとても大きなダイヤモンドの付いた指輪で、持ち主はレストラン紅殻館の夫人だった。紅殻館は街では知らぬ人もない。奥まった一角にひっそりと店を構えているが、時々変わった料理を創り出しては評判を呼んでいた。例えば、100年に一度実る桃を使った鴨の煮込みなど。紅殻館はその名の通り、壁も屋根も美しい赤茶色に染めた建物で、こんもりと緑に囲まれ、かなり名高い人たちの利用などもあって、主人はそれを誇りにもしていた。周りから閉ざされた庭には、自慢の薔薇園も作ってある。
 その主人が6月のある晩、自分のレストランを開放し大勢を招いて、園遊会ということをした。それなりに着飾った客達は、木々の匂いのする庭を緩やかに歩きまわり、上等な酒を口に含んで談笑したりしていた。主人は山猫のようなひげをひねりながら上機嫌で客の間を取り持ち、夫人は何人かの女性に囲まれて笑い声を上げていた。空には珍しいくらいくっきりと月が出ていたが、誰も上を見上げるものはいなかった。
 そろそろ会が引けようという時だった。大部分の客達が帰り、何人か残っていた者達も出口に向かおうとしていたが、夫人が急に青ざめて声を上げた。何事かと立ちすくんだ客達の前で、夫人は震え声で言った。
 「私がついさっき、ここにはずして置いた指輪がないわ。」
 さすがに主人は落ち着きを装っていた。
 「そんなことがあるものか。良く探してみたのかね。」
 夫人によれば、大勢が帰って出口がすき始めた頃、指輪をはずし小箱に入れて、箱をテーブルの上に置いたそうだ。誰かに呼ばれてふっと注意がそがれ、戻ってきてみると箱の中に入れたはずの指輪が見あたらなかった。当時は小さな路地に面した出口は開いていて、残った客は数人しかいなかった。夫人の様子を見、空の箱を見て、山猫顔の主人も表情を曇らせた。
 これはどうも大変なことだ。
 客達は半分、夫人に同情しながら、もう半分ではこう考えた。
 これは大変迷惑なことだ。 まずここに居合わせた者達が疑われるのに違いない。主人が憮然として言うには、その指輪一つでかなり大きな土地でも手にはいるほどで、その上たいそう由緒あるものだそうだ。確かな筋で鑑定もしてもらった。主人は付け加えた。その場に立ち会った者達は、青くなってすくんでしまった。
 紅殻館は前にも言ったように、通りから奥まった路地の突き当たりになっている。路地の両脇は高い塀と茂った木々で区切られていて、入り口に館の名前を書いた小さな看板が立っている。通りに出て右手に曲がってしばらく行くと、郊外電車の線路を横切る。逆に左手に行くと広い並木通りに出て、小さな店がいくつか夜遅くまで明かりをつけているという具合だった。ちょうどその晩、その時刻に、二人の警官が並木通りを歩いてきて、何か黒い影が路地から飛び出したのを見た。影は警官の姿を見てくるっと体をひるがえし、反対の方向へ逃げた。どうも怪しいというので、とりあえず二人は追いかけた。道は曲がっていたから、その影は少しの間見えなくなったが、線路を越えてしばらく行ったところで二人の警官は追いついた。通りには横道は付いていなかった。途中に隠れるようなところもない。それはよれよれのコートを着た若い男で、口をとがらせて抗議をした。
 「放して下さいよ。何だっていうんです。」
  警官は穏やかに肩に手を置いて言った。
 「いや、君が我々の姿を見て逃げ出したように思えたんでね。何なのか聞こうと思ったのさ。」
 若い男が警官の手を振り払おうとした時、静かだった通りにがやがやと人の騒ぐ声が広がった。先ほどの路地のあたりから、何人かの人が出てくる。警官の一人が、様子を見に戻って行った。そして盗難事件が公けになった。
TOP

ブルーライン
ここでご紹介した書籍に関するお問い合わせは,このメールアドレスでお願いいたします。
ブルーライン
このサイトの短編や随筆などの文章の著作権は、すべて浅岡鉄彦に帰属しております。無断複製・転載は、ご遠慮下さい。