ムクドリの日々
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ブルーライン

  「お待ちしていました。」
と、公園のベンチが言った。腰を掛けようとしていた茂一は、まじまじとベンチを見た。午後の光がクヌギの若葉を通して降りかかっている。木立の中で、ムクドリが何羽か鳴き交わしている。風は柔らかに陽の匂いを運んでくる。冷静になろうと茂一は、もう一度ベンチを眺めた。黒い鋼の脚と骨組みのどこにでもある形。がっしりと分厚い板が渡してある。板は緑色に塗られているが、雨風にさらされて大分はげかかっている。木漏れ陽の注ぐベンチは暖かそうで、ちょっとした時間を過ごすのに良さそうだ、と茂一は考えたのだ。もう一度、ベンチは声を出した。
 「本当に、お待ちしていました。」
 森村茂一は三日ほど前に、何十年と続けてきたすべての仕事から解放された。
 もうどこへも行く必要もない。
 そう考えると、心がすっと静かに落ち着くような気がした。髪も白くなってきたことだし。けれども今日、これまで通りいつも慣れた道を歩いた時、ふと考えた。
 ここはどこだろう。
 見慣れたはずの通りも、店店も、小路も、何やらよそよそしく思えたのだった。どこか静かな場所で本でも読もう、そう考えて歩きまわったのに、どこにも迎え入れてくれそうな場所が見つからなかった。昼近くなって、ようやくこの小さな公園に目をとめた。緑の萌え出す季節の週日、あたりには人影もない。茂一は声に従って、落ち着かぬ体のこなしでベンチの端に腰を下ろした。
 言われなくても、もともとここに座ろうと思っていたのだから。で、あの声はやはり本当にベンチが話しかけた声だったのか。
 茂一はそっと、自分の声に出してみた。
 「お待ちしていたと言ったが、私が来ることが何故分かったのだ。」
 穏やかにベンチは答えた。その言葉はごく自然に茂一の耳に入ってきた。
 「私は近くに来た誰にでも声を掛けます。聞き取ってもらえることは余りないのですけりれどね。でもあなたはすぐに分かって下さった。」
 どうして自分はこうやってベンチと声を交わしているのだろう。長い仕事から解放された者は、誰でもこうするのだろうか。茂一は持ってきた本を脇に置き、状況を分かってもらおうと言ってみた。
 「自分は、これまで続けてきた仕事からやっと解放されたところなのだ。」
 「ご苦労様。」
 ベンチはあっさりと言う。まるで家人から言われたのと同じだ、と茂一は思う。
 「これから、どういうふうに生活していったらよいのかと考えるのだよ。」
 「何でもありませんよ。たくさんの人が同じようにしてきたのですから。」
 ベンチは同情する気配は見せなかった。それでも、多少はなぐさめる必要があると思ったのか、こう付け加えた。
 「流離の身というのも、考えようによっては得難いものなんじゃありませんか。」
 なるほど、流離の身か。自分は確かにすべてから離れた、かも知れぬ。
 「これからの生活も、悪くはないと言うんだね。」
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 公園の桜はすっかり若葉になり、この間までの花盛りが嘘のように静まりかえっている。乳母車を押して、若い母親が通りかかる。母親は怪訝そうな顔をして、ベンチでぶつぶつと言っている茂一を盗み見た。黒い身なりのセールスマンらしい男が、説明書に目を通しながら、脇見もせずに横切って行く。
 こうやって茂一が公園のベンチと会話をしていることは、奇妙なことなのだろうか。若葉の濃い影は時間を吸い取っている。気にとめない様子で、ベンチは続けた。
 「ところで、あなたのこれまでのことを話してみませんか。」
 もう一度履歴書を書くような気分だ。茂一はとまどった。
 「自分のこれまでだって?」
 今まで、時間を振り返ることなどしたことがなかった。組織の中で営々と勤め上げてきたこと、多少は嬉しいこともあったこと、そして仕事を始めたばかりのもっと若かった時のこと。少しずつ時がさかのぼってゆく。学校にいた時代、さらにずっと子供の頃。苦いものをかみ殺すように、茂一は体を起こし、顔を上げた。クヌギの枝の間から陽が揺らめき、ムクドリたちは大人しく羽を休めている。
 「小さかった頃の方が、生きてて嬉しかったかも知れないな。大抵、誰でもそうなんだろう?」
 同意も否定もせず、ベンチは黙って聞いていた。あたりはまばゆい光と風に満ちている。茂一は見たことのない光景を、呆けたように眺めていた。するとベンチは突然、こんなことを言った。
 「歌でも歌ったらどうですか。」
 茂一はぎょっとしたが、ベンチは諭すように続けた。
 「さっき、流離の身と言ったでしょう。流離の民は必ず歌を持っています。そうしなければ、歌わなければ、生きてゆけないんですね。」
 それから、こう付け加えた。
 「流離の民が一度定住すると、もう歌わなくなると言いますよ。」
 ふん、ベンチはなかなか物知りで侮れない、と茂一は思う。確かに自分はすべてを離れた。会社の組織からも、その多くの仲間からも、それから同窓会からも・・・これは会費を払わなかったためだが。これからさらにいろいろなものから離れるのだろうか。ぎくりとして茂一は、考えるのをやめた。
 「歌うのはもう少し別の機会にしよう。」
 特に残念がりもせず、ベンチはそれを認めた。
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