猫の4月

ブルーライン

マツオ爺さんは、川べりの桜の木の下でうとうととしていた。爺さんの座っている木のベンチは、陽を浴びて暖かい。細い川の流れには時折花びらが浮かんで、ゆったりと動いていった。瑠璃色の小柄な鳥が、川筋に沿って真っ直ぐに飛んだようだったが、はっきりとはしなかった。
「どうもこのごろは、昔のこともとんと思い出せなくなっているな。」
何か皆、霞の向こうに隠れてしまうようで。
「こうしてここに座っているのも、いつからだったのかと考えるほどだもの。」
小さな羽虫が一斉に飛んで、空の高い方へ流れて行く。土手のやわらかなカワヤナギの茂みを分けて、一匹の白い小さな猫が顔を出した。猫は川面をしばらく見つめていたが、やがて爺さんの目の前を忍び足に横切って消えた。それと一緒に爺さんの前を、何か白い固まりがふわふわと通り過ぎた。
「ああ、猫のことなら思い出せる。」
桜の影が明るく揺れる。マツオ爺さんは、377匹も猫を育てたのだから。

 最初は一匹の白猫だった。
 「そう、あのときは自分も未だ若かったし、独り者だった。」
 庭に迷い込み、窓の下でか細くフィーフィーと鳴いていたのを、飼うようになったのだ。ちょうど4月の、涼しい晩だった。生まれてまだ半年くらいしか経っていない痩せっぽちで、ずっと先の林の方から歩いてきたらしい。猫にはフィーという名前をつけた。フィーは余り物を食べ、段ボール箱の中で寝て、少しづつ育った。誰もいないその部屋で白い毛を撫でていると、心の中まで白く柔らかくなってくるようだった。
 一年と半分ほど経って、フィーは子供を生んだ。同じような白い子猫だったが、どうしたらよいのかと、フィーはとまどう様子だった。体をなめてやっている間も落ち着かず、訴えるような目で周りを見た。乳を含ませている時フィーは、子猫の頭を叩いていた。けれども子猫は、一ヶ月ほどで死んでしまった。若かったマツオ爺さん--これは奇妙な言い方だけれども--は、猫にとってこの世界が生きにくいものだということを知った。まだ若葉が芽吹いて、あらゆるものが生き生きとしている季節だった。子猫を埋めた木の下を、フィーはいつまでも嗅ぎまわっていた。
 その後しばらくフィーは子供を授からなかったが、3年目にまた一匹だけ子供を産んだ。どういう訳か、白いフィーから黒い子猫が生まれた。だからマツオ爺さん--まだ若かったが--のもとには、2匹の猫が居つくことになった。子供にはボウという名前がつけられた。何の根拠があったのかは分からない。
 「ぼうっとした顔をしていたからかも知れん。」
 今度はフィーも多少落ち着いて、子育てをするようになっていた。窓の下、草の中で母親が横になり子猫を尻尾で遊ばせている姿を見ると、マツオはあたりが円く金色に光っているように思った。
 また何年か間をおいて、フィーは子供を生んだ。茶色い縞の子猫で、ナッチという名前になった。ちょうど夏が来る頃だったから、3匹の猫はマツオの庭で、陽を一杯に浴びて過ごしていた。マツオの家は部屋数も少なくみすぼらしかったが、庭だけは広々としていた。早くに亡くなった両親が、それだけを残してくれた。隣家の5本の大きな欅の木と立派な洋館は、ずっと向こうに見えている。間に草深い植え込みと雑草の生えた畑が広がり、どこまでが境界なのか分からなかった。
 猫はやがて5匹になり、それから8匹になった。マツオは仕方なく、ひとつひとつに名前をつけた。フユ、ハル、アイ、ビー・・・・。いちいち覚えきれなくなった頃、もう名前をつけるのはやめにした。指を立てて呼ぶと、皆、草の中から顔を出し、飛んでくるのだった。猫たちは日がな広い領分を思い思いに動きまわり、夕方になると一匹づつ家へ帰ってくる。夜にはマツオの部屋の本棚の間を、我が物顔に歩く。13匹になってもフィーは全部を取り仕切って、あとの猫どもは誰も、頭が上がらない様子だった。

その頃、マツオは最初の結婚をした。13匹の猫は、新入りの猫を見るような目で、マツオの妻を見つめた。妻は最初から、フィーとは折り合いが悪かった。食事のたびにお互いを、厳しい目で見つめ合う。妻もこういう生活に慣れていなかったのだ。残りの猫どもは半分背中を向け、遠巻きに様子をうかがっていた。
 「こんなことで頭痛がするとは思わなかったな。」
 予定外の、家ほど大きな荷物がマツオの目の前に届いたような気分だった。一つの家に女主人二人はいらないのだ。どの椅子に誰が座るのか、食事は誰が先に始めるのか。事あるごとに妻とフィーは反目をし、卓の上にさざ波を立てた。二年もしないうちに、
 「あんたは私と猫とどっちが大事なの!」
と、ありきたりのせりふを残して、妻は去ってしまった。
 「妻は中まで踏み込んでくるが、猫は椅子のところまでしか入ってこないからな。」
 マツオは力無く、そうつぶやくしかなかった。
 しばらくしてマツオは、2番目の妻を迎えた。この妻はマツオの家と相性が良いようだった。猫どもも、余り反抗しては悪いと思ったのかも知れない。フィーも少し距離を置きながら、二人を眺めていた。何年かのあいだ静かな時間が過ぎ、その間に猫の数は増えていった。途中でいなくなったり死んでしまったりしたものもいたから、マツオは最初のフィーからの数を数えることにしていた。最初から数えて21番目の猫が生まれた時、マツオの妻が子供を宿した。けれども子供はお腹の中で育たず、この世に出てくることがなかった。子供にとっても、この世は生きにくかったのだ。妻は子猫を膝に乗せながら、長いこと遠くを見ていた。34番目の猫が来た時、入れ替わるように2番目の妻は亡くなった。マツオは何も言うことが出来なかった。
 猫の数は相変わらず増え続け、最初から数えて55匹目になった日に、フィーが死んだ。マツオは初めて来た夜、フィーが鳴いていた窓の下に埋めてやった。
 「今、庭には一体何匹残っているのだか、良くわからん。」
 マツオも年を重ね、猫も生き替わりして、それでも三分の一くらいの数はいるはずだった。
 「もうこれ以上は飼えないかも知れない。いや、今だって飼っていると言えるのかどうか。」
 だがその意志に反して、フィーの置き土産のように数はやはり増えていった。

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「ところで、猫というものは時々いなくなるが、あれは一体どこへ行くのだろう。」 長い間にマツオは、いく匹もの猫が途中でいなくなったり、またひょっこりと帰ってきたりするのに気がついていた。とても全部は覚えきれないのに、そういう猫に限って良く頭の中に残っている。ある時、知り合いの男がマツオにこんなことを教えた。
 「猫の王が死ぬと、その代わりになるために猫は姿を消すのだと言われているが。」
 マツオは考えた。
 「だとすると、猫の王というのは度々死ぬのだな。」
 2番目の妻がまだいた頃のことだ。窓の外で風が鳴る夜だった。マツオはこんな声を聞いたように思った。
   おまえ、行くのかい。
 妻は先に寝ていたから、他に誰もいないはずだった。庭の山桃の木が、さわさわとそよいでいる。マツオはカーテンを開け、そっと外を見た。木の下に21番目の若い母猫と、22番目のその子猫が並んで座っていた。黒いソックス模様の子猫は、風に向かって顔を上げ、しきりに匂いを嗅いでいる。母猫の声がもう一度はっきりと、マツオの耳に入ってきた。
   しなくちゃならないことは、分かっているね。
 そして母親は、丁寧に子猫のうなじをなめてやっていた。
 「何故、猫の言葉が分かるのだろう。」
 風がもう一度強く吹き、子猫は何かを聞き取ろうとするように、張りつめた表情で一心に耳を立てていた。母猫の声は風と一緒に、高くなったり低くなったりしながら聞こえてくる。
   おまえの大叔父は猫の王の山に出かけたけれど、途中で命を落とした。それからおまえの遠い祖父は、行き着くことが出来ずに戻ってきたんだよ。
 思い出してみると、そういう猫がマツオの庭にいく匹かいたようだ。
   だからおまえ、心して行くんだよ。
 子猫は旅立とうとしている。マツオは自分の周りに、庭よりも街よりも大きな世界が、星明かりに包まれぼんやりと広がっているように思えた。

 その夜、マツオはこんな夢を見た。
 どこか知らない街の雑踏の中、自分は落ち着かない気持ちであたりに目をやっている。
  「とうとう来てしまった。」
 いつのまにかマツオは、あの子猫と入れ替わっているのだった。母猫が言った通り、子猫になったマツオは旅に出たものらしい。傾いた高い屋根が頭の上に覆いかぶさり、狭い通りの向こうに猫の耳のような鋭い山がそびえて見える。
 「あれが猫の山か。」
 山の頂に城があって、猫の王がそこにいるはずだった。周りを見まわしてマツオは、行き交う人々が皆、猫の顔をしているように思った。自分の顔はどうなのだろう。触って確かめようとしても、何故か手が動かない。
 「自分はあの山に上り、王になるためにここへ来たのだ。」
 庭と同じような風が、通りにさわさわと吹いている。母猫の言葉がマツオの耳に、はっきりと残っていた。
   この世は目で見るよりも大きいのだからね。行っておいで。
 「これからどうすればいいのか。」
 マツオの足は山の方に向かっていた。街からは急に人の姿が消えていた。山までの道ははっきりと見えているのに、歩こうとする足は何かに吸い付けられたように重く、なかなか進むことが出来ない。猫の山は少しも近づいてこず、あたりは次第に暗くなってきた。 「あ、このままではたどり着く前に夜が来て、何もかも見失ってしまう。」
 星明かりを頼りに探そうとするが、道はいくつにも分かれて世界中がしんとしている。その時マツオは、山の方から低い音が流れてくるように思い、それと一緒に自分の体が浮き上がるように感じた。何かに体を支えられて、空に泳ぎ出すような気持ちだった。バランスを取ろうともがいた時、マツオは夢から覚めた。自分がまだ猫でいるのかどうかと、マツオは顔に触ってみた。窓の外に、つるんとした月が沈んで行くところだった。
 朝になって、子猫は見えなくなっていた。
 「やはり、本当に猫の王の山に行ったのだ。」
 母猫は探すそぶりも見せず、山桃の下で無心に陽を浴びている。

 こんなことがあってからマツオは、風の強い晩にはしばしば落ち着かない気持ちになった。月が遅くに出る時は余計にそうだった。2番目の妻もフィーもいなくなったが、猫の数だけはそれから何年かの間に89番目へと増えていた。それでも、庭にいる数は余り変わらない。
 「それだけいなくなっている訳だな。庭が広くなっているはずはないから。」
 しかし実際に、庭は広くなっているのかも知れない。マツオは年と共に自分が小さくなってゆくように思えたのだ。隣家の欅の木は年ごとに大きくなり、遠ざかるように見える。何年も経って、フィーから数えて144匹目の猫が生まれた時、マツオは3度目の妻を迎えた。
 「遅すぎるということは、何に対してもないからな。」
 3度目の妻は、向かいの椅子にいつも静かに座っている。マツオは何だか、猫の妻を迎えたような気がした。

 そして233匹目の子猫が生まれた時だった。やはり風の強い晩で、マツオは心の中がしきりに騒ぐような気がした。窓を開け、庭の木々が揺れているのを見ていると、こんな声が聞こえたのだ。
 マツオ、おまえが行く時だよ。
 葉ずれの音にまぎれて、本当に微かな声だった。妻はそばにはいないし、他に誰も見えない。庭には猫もいなかった。
 気が付いた時、マツオは以前見たのと同じあの街の雑踏の中にいた。一筋の通りの向こうに高く、王の山がそびえている。自分の顔がどうなっているのかと手で触ってみると、ひげの生えているような気がした。
 「234番目になってしまったのか。」
 周りの人混みの中から、マツオは誰かに呼び止められた。人間の女の姿をしていたが、顔は見覚えのあるフィーの顔だった。フィーはそばに寄り添った。その顔は最初の妻の顔ようにも、2番目の妻の顔のようにも見える。マツオは尋ねた。
 「私は猫になったのか。」
 フィーはゆっくりと頭を振った。言葉を話さず、優しい表情だった。
 「私もあの山に行くのか。」
 高い山の頂は少しかすんで見える。フィーはまた頭を振った。
 「もしかして私は、もう別の世界へ行くのか。」
 やはりフィーは静かに頭を振った。
 「では、どうすればいいのだ。」
 女の姿のフィーは、ただ風に吹かれて寄り添っている。フィーのうなじが白く見える。
 マツオは、何故自分がここにいるのかと考えた。遙かな昔に、やはりこういうことがあったような気がする。これは夢の中なのだろうか。
 あたりは次第に薄くなってゆき、王の山も消え、最後にフィーの姿が消えた。
 目が覚めた時、風はすっかり止んでいた。
 「さっきのは夢でないような気もする。あんまりたくさんの猫を見てきたせいなのか。」
 マツオはふっと考えた。
 「この星の上で人間の姿をして、いつまでもいていいものだろうか。」
 庭の若葉が、夜明け前の光を受けている。

それからも、マツオの家には猫がやってき続けた。この4月で、とうとう377匹を数えるところまで来たのだ。木のベンチに座り、桜の木の下でマツオは、もう一度思い出せる限りの名前を呼んでみた。すると猫どもは一匹づつ、こちらを見もせず花の下を通り過ぎていった。
 「フィー、ボウ、それからナッチ、フユ、おうおう、おまえ達・・・・」
 ベンチの上でマツオ爺さんは目を閉じ、まどろんだ。  

                                   (了)


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